昭和44年7月15日 朝の御理解  【入力者:岡村和一郎】


 御理解第30節
「神を信ずる者は多いが、神に信ぜられる者が少ない」


 今朝のご祈念に、私あの、嘘のない生き方、嘘、嘘のない生き方。そんなことを頂いて、この御理解30節を頂いております。(とみに?)、えー明るいというか、明朗な、あー世の中というのは、嘘のない生き方から、あー(?)生まれないと思うですね。
 (?)私どもの住んでおるような中から、嘘を追放しなければならない。明るい社会作りといったようなことを申しますけれども、おー、嘘のある社会、あまりにも嘘が多いすぎる。これは、だから小さく言うと、おー、私自身、自身のことでもありゃ、また私一家のことでもあると、いうふうに頂かなかなきゃならん、ね。

 自分で自分を欺いておる、ね、または家庭の中に隠し事がある。ね。分からない間はまあいいんですけれども、それが分かると、もうほんとに親子でも夫婦でも、それこそ、百年の恋もほんとに冷めてしまうようなことがあります。ね。それは嘘があるからです。
 嘘のない生き方。とりわけ今日は一つそういうふうに頂くのでございますから、嘘のない、ね、えー隠し事のない生き方をしたい。そこから、明るい私があり、明朗な家庭があると思うんです。

 けれども、嘘とこう言うてもね、まあいろいろあるんですよね。えー意味は私はよく分かりませんけれども、お釈迦様のおっしゃったということの中に、「嘘も方便」ということがある。
 ですから、あー、私のそれも、ほんとに自分自身が、(いわゆる?)ほんとの意味での助かりですよ。助かりのため。ね。ほんとに自分が助かることのための、おー私は、嘘であったら、それはもう実を言うたら、嘘ではないのだ。または、それがほんとに人が助かることのため、ね。それが人が助かることのためなら、それも実を言うたら嘘ではないのだとこう。

 あれは、あー、まあ、あー、お芝居にありますよね、(やわいやわせ?)っち(?)。火あぶりの刑にあうんですよね。けれども、そのいよいよやっぱその情状酌量するところがあるわけでね、お役所の方としても。
 ですから、あの、お前はまあだ16になっていないのだと、お前は15だろうがと、まあ(?)のあるその、おー裁判を(?)すかね、そう言うんですけども、「いいや、私は16です」と言い張るわけです。「いいや、お前は16じゃない、まだ15だ」と。15までの間なら、その罪はない。罪は、うーん、いわば死刑に、火あぶりなんかならんでもいいわけです。
 けども、16と言い張るところに、なーもう仕方がない、それこそ、おー裁く者も、おー裁かれる者も、ああいう一つの悲劇ということになるわけです。自分が言うんじゃない、外側からでしょうかね、助けたいばっかり。まあ、それによって自分も助かる。
 そういうような、私はあの、場合の嘘だったら、助かることのため、そりゃ少し助かることのためという(は?)、少しは違いますけれどもです、私どもは真実助かっていくという、ね、真実助かっていくということの上には、あーいわゆる、その、言う嘘も方便というのではなかろうかと。ね。

 また、例えとくに、親が子に対して嘘を言うことがあります。ね。それをその子供が憎いからでなくて、子供がかわいいから嘘を言うことがある。いつもあのー12時半頃ですかね、いつもあの、テレビで私はその時間をテレビを見せてもらうんですけれども、うーん、何かあれは、洗剤の宣伝をやってますよね。
 小さい2つぐらいの子供、まあヨチヨチ歩き、歩きぐらいの子供がね、あのー、あの、画面にニコニコとして出てくるです。ね。すると、あのー、おー、次には、あの何か前の、着物をいっぱいなんか汚して(る?)。
 「まあ、今洗ってあげたのに、もうこんなに汚してる。もうそんなことは(お父様に?)言いつけるよ」っち言うてから、言うと、こう泣き出しますよね。もう私あれは(見よって?)、自分自身が泣き出したいごたる感じがするん(微笑)。もう何回見ても飽かない。あの、おそらく、宣伝はもういついつまでも、あれはいいと思うですね。もう、まあだあればしよるっちいうことはなかと思う。

 もう、もう(上の者をして?)いつも私達じゃなかろうと思うんです。もうそれを見ておるとですね、(?)泣き顔になっていくんですね。自分もホット気がつくと、自分も泣きそうになる(笑)。
 (?)まあ、そのー、まあ(今後?)の宣伝をしておるんですがね。(要に?)その、おー、「パパに言い付けるよ」ということは嘘なんですよ。けども、親が子供に嘘を言ってるんですよね。「パパに言いつけますよ!」というもんですから、泣か、あの、もう泣き出しそうなところがある、ね、画面に出てくるんです。
 これなんかは、私嘘じゃないと思う。そのようであって、やはり方便だと思う。私、仏教的に方便という、嘘も方便というのはどういう意味か、私は分かりませんけれども、まあ私流に解釈して、お話をさして頂いておりますね。

 だから、そういう例えば、嘘であったり、真実自分が助かることのための嘘、または、えぁー、相手が助かることのための嘘。ね、あの人はそんな嘘を言うたから、もうあの人は信用はできんといったようなことはないでしょうが。ほんとにようも嘘言うてくれたね、ということでしょうが、後から。ね。
 だから、そういう嘘は嘘ではない。例えば、正直者じゃというても、神仏のような人じゃというても、次々難儀なことが起こっておると、こういうものは、こりゃ私はあんまり感心した正直じゃないと思うですね。教祖がもうそういうふうに表現しておられる。ね。
 私がほんとに思う正直というのはですね、いうなら、この30節にあります、「神に信じられる」ということだと思うんです。ね。神様に信じられる生活、生き方。神を信じる者は、神、え、神を信ずる者は多いが、神に信じられる者が少ないと。
 だんだん信心をさして頂いて、おかげを頂いてまいりますと、神様という、その存在を無視しておったような人でも、神様はござるのござらんのということは言えなくなってくる。
 それを、神様の働きと言うんであろうというように分かってくる。ね。だんだん、神様を信ずることができるようになる。そこからです、ね、私は信心の道というのはついてくると、こう思うんです。いわゆる、信心の道というのは真の道がついてくると、こう思うのです。ね。
 真というのは、嘘ではないという意味です。ね。嘘の反対は真、真の反対は嘘ということになる。ね。ですから、私どもがですね、まず何と言うても、白紙になること。ね。

 まあ、例えて申しますと、うーん、どんなに汚れた、あー、いわば生活をしておりましても、ね、お風呂に入ったりお水をかかったり致しましょう。そすと、もう体も心も、こうすがすがしゅうなりましょう。ね。もちろん、体の汚れは取れますと同時に、心の汚れまでも取れる思いが致しましょう。ね。
 私どもがですね、ほんとにお粗末ご無礼の多い私どもですけれども、そこに修行というですね、例えば、なら、お水をかぶるような意味合いですかね、修行をさして頂くところからね、私どもはいつでも白紙になれるのですよ。
 そのことのための、ね、汚れておるから洗いますと、そういう気になって修行さして頂くことはね、それは汚れを落としたことと同じなるんです。ね。いわば、心の呵責に苦しむというのはです、ね、その汚れを落とそう、そのことをほんとに素直に詫びようという気にならんから、苦しまんならんのです。そのことのためにお詫びをする。ね。

 菊池寛原作の『恩讐の彼方』っていうのがありますね。青の洞門の話です。ね。たくさんな人をあやめ、いうなら悪いことの限りを尽くした人が、あー、はじめてその悪いことに、いわば気がついて、ね、お詫びのためのという、おー修行を始める。
 罪滅ぼしのための、いわば生活に入る。そこには、もう、おー敵(かたき)もなからなければ、ね、討つ者討たれる者がです、ね、ほんとにそこに抱擁して、喜び合うといったようなおかげを受けられる。ね。
 自分は、過去においてたいへん悪いことをして、悪いことをしとというだけで、それを詫びようということになってこないから、いつまでたっても、汚れ果てた私ということになる。その罪を背負ったということになる。ね。

 そのへんのところが信心がないとですね、おんぶせなくてもよい罪をですね、おんぶしておることがたくさんありますね。自分の責めではないものを、自分の責めと思うて、苦しんどる人がありますよ。重たい物をかろうておる。
 それはなぜかというと、本当なことが分からないからです。ね、ですから、そういう人達がひとたび真の道に入らして頂いたら、ね、そこからね、私はおかげの頂けれる道が開けてくる。ね。

 嘘のない生活。必ず、嘘のない生活をしておるならばです、あの人は、あの人の言われることは間違がいないと、信じられるだろうと思うです。もうあれが言うことは当てにゃならんもう、それこそ嘘八百。どげな素晴らしいこと言ったっちゃもう、あれが言うことどん信用しなさんなち言うてから、人にまで宣伝する、ことになるわけです。
 (?)さんがこう言いなさったですよ。ああー、あの人が言いなさった(かたほんなら、?)、あー、どこまでほんなこちゃ分からんがの、ちゅうごたるふうになってくる。ね。
 私ども、小学校の1年生だと(?)、あのー、嘘を言う子供のことが出てましたよ。いつもその、狼が出てきたと言うては、その村の者を脅かすわけですよね。ほんで、(?)始めの間、びっくりしてから、あのー、(?)いっつも嘘である。
 ところが、本当に狼が出てきた時に、助けを求めたけれども、またあれが言うごっちゃけん、またしらごつやろうと思うとった。で、だーれも構わなかった。ところがほんとに、その、狼に食われた、というような話がね、収集に出てましたよ。んん。
 ほんとに自分のそういう嘘の生き方がです、その嘘がです、ほんとに、自分の命取りになるんですからね。改めにゃいけんです、改めた生活に入らなにゃいかんです。ね。

 2回、3回は誰でも信用しましょう。ね。いうなら5年、10年は、それで、ね、だまし続けることもできましょうけれどもです、ん。人間でもだんだん分かって、それがくるようにです、ね、神様が見ておいでなのですから、聞いておいでなのですから。ね。私どもは本気で一つ嘘のない生活、いわゆる真の生活に、真の道を歩かせてもらう。嘘のない生活です。ね。
 そこにです、ね、心行というものが生まれてくる。いやーもうあの店は確実だと。ね。あの店の大将は、なかなか、あー、真実のある人だと。お客さんが信用されてもらうところから、必ずその店の繁盛が約束される。
 人間のことですから、いつどういうふうに、お粗末ご無礼なことがあるかも分からんけれども、いやーあそこの、あの人のことであるから、(よくせき?)なことであっただろうというふうになってくる。たとえそれが嘘であっても。ね。
 あんな真面目な人だ。だからよっぽど(よくせき?)なのだっただろうと、それを皆が、いわば寛大に受けいてくれるわけです。ね。神様と私どもの場合でも同じことだと、いうことを思います。

 だんだん信心をさせて頂いて、神様が分かってくる。神様、有り難い、神様を信ずることがだんだんでけてくるようになるけれどもです、そのそれは、おかげを頂くから神様を信じておるのであって、ね、自分の思うようにならない、おかげを受けなくなってくると、神様を今度は反対に信じなくなってくる。は。
 そこで私どもが思わなければならないことはです、神様が信心によって、おかげによって分かってきたらです、その神様に信じられる本当の生き方を始めなければいけないということである。ね。
 そこからです、ね、神を信じられるという私は体験が必ず生まれてくると思う。だから、どんな場合であっても、神様のご都合に違いはない。これはまあだ私達の信心が足りぬから、といよいよ本当のことを求め、いよいよ真実を求めて、信心を進めていくことになる。そういう人の上にです、私は、神に信じられる氏子というのは、そういう人達の上に、神様のご信用はいよいよついてくるんだというふうに思うのです。ね。

 「神を信ずる者は多い。神に信じられる者が少ない」。ね。その神を信じられる、神様に信じられる私どもになる。それは、私どもが嘘のない生活に入らなければならない。ね。いわゆる、真の道の生活に入らなければならない。
 神様の、いわばご信用はだんだんついてくる。いよいよ神様からも信じられ、また、神様もいよいよ絶対なお方として、神様が信じられる、いわゆる、信じ信じられる仲っていうのが、そこから生まれてくる。ね。
 そこでまた思われることでございます。どうも、うちの主人は、(しに?)、どうもこの頃嘘言いよるごたる。どうも、私に対してよそよそしい。例えば、思うことがあると致しますが、ね、どうもうちの子供はおかしい、というふうに、まあ親が思うと致しますか。それは子供が親を、まあそういうふうに見てもいいでしょう。ね。そこから、嫌や白々しい、ね、信じ信じられない、いわば何と言うんですかね、そういう生活何と言うんでしょうか、いわばだまし合いの生活とでも申しましょう。ね。
 これで、いわば家庭が明朗になるはずがありません、もちろん、社会が明朗になるはずはありません。

 先日、ある本に、えー、政治家というのは皆嘘つきだと。まあ皆という(?)ないけれども、だいだいそうだと。ね。お互いが、(よう?)選挙する権利を持っておる。ならば、棄権をする権利もあるはずだという意味のことを言うておりますよね。国民の義務だから、さあ選挙に行かにゃいかん、選挙には行かんと、そういういわば無責任なですね、そういう、うー、真実のない選挙が、あるだろうかと。ね。
 もう、(?)行かんというなら(?)でしょう。けれども、義務だから行かなきゃならん。それが、そんならどういう人物か、よく確かめもしないでです、まああれが名前を書き(よいわ?)けんで、写真見たらなかなか人相がよかろうごとあるけんで、っちいうごたるくらいでですよ、もし選挙に行くなら、これはもうほんとに真実のない生き方なんです。
 それで真実のよい社会が生まれてくるはずはないち。それよりもむしろです、ね、ね、棄権する権利があると、自分の思うような人はない、この人はと信用できる人はない、と思うたら、むしろ棄権した方が本当だというようなこと、書いてありますが、私もなるほどだと思いました。ふん。

 そういう、いわばいい加減な生活を、私は、ね、そういういい加減な生き方をです、私も、嘘の生き方だとこう思うですね。まあ、あの人は人相がよかろうごとあるけん、あー、はな、話を聞いたら、なかなかまったくなこと言わっしゃるけん、というて、その後、履行する政治家はいないじゃないかと。
 ね、もっと真実な、あーところからですね、えー、選挙する者選挙される者、が、あー、でけてこなければ、ほんとのよい政治が行なわれ、よい明るい社会ということは生まれてこない。ね。
 私どもが知らず知らずのうちにです、本当でない生き方をしておることもたくさんありましょう。(?)今日は一つそういう私どもの周辺からそういうですね、嘘を発見して、ね、本当の生き方を求めておかげを頂きたい。ね。
 それが続けられるところに、その(人?)の上に、人の信用はもちろん、神様のご信用がついてくる。ね、神に信じられることになってくる。うちの子供は信用ができん、うちの家内はどうもと、っという前に、自分自身がほんとに信じられる私になることをね、努めたらよいのである。

 子供じゃない、家内じゃない、自分自身が、ね、信じられる私に精進さして頂かなければならない。ね。そこから、いわば家内も子供も、たとえていうなら、ね、真実に満ちた人間、真実にあふれた家庭作りというものができるんだと、私は思うんです。
 人じゃない、自分自身が、私は、ね、(信心有り難くしならさして?)頂くことだというふうに思うのです。ね。だから、一般にいう、私は嘘というのは、ね、例えば、ある御理解27節ですか、にあります、ね、仏様のような人、神様のような人じゃと、あの人は正直者じゃというと。例えばね、そういう生き方のことではないということが分かります。ね。
 そういう正直者が、不幸せになるはずがないからです。だから、信心でいう正直者、信心でいう、いわゆる神様、仏様のような人じゃという、いわゆる生神を目指しての、し、し、信心だと言われておる生き方。
 それには私どもが何と言うても、ね、嘘の生き方から、ね、真実の生き方、いわゆる真の生き方、いわゆる真の道の、の、生き方。ね。そこにです、神に信じられる氏子ということになり、同時に、いよいよ神様を信じて疑わない、な、かっ、確固たる、いわゆる信念を、いよいよ使うていくことができる。ね。
 そこんところを、今日は御理解30節に、「神を信ずる者は多いが、神に信じられる者が少ない」。そこで、神をいよいよ信ずることのできれる私達に、いよいよ神様に信用して頂けれる私達に、ならせて頂くためには、といったようなところに焦点をおいて、今日はこの御理解30節を頂いたわけですね。どうぞ。